花研コーヒーブレイク
重陽の日にちょっとだけキク文化を考えてみる
2013.09.09
2020年オリンピック東京開催決定、嬉しい限りですね。
陰ひなたで東京招致を推進、支援されていた方々に祝福とねぎらいと感謝の気持ちをお送りしたいと思います。
さて、今日はそんな嬉しいニュースが日本列島を駆け巡った週が明け、9月9日本日は重陽節句です。
この日にちなみ、ちょっとだけキクについて考えてみました。
キクが、電照によって開花調整できることがわかったのは1921年、周年栽培は1950年確立されました。米国の研究所が周年栽培を確立し、世界各地に広めていっきました。・・・あ、結構最近。
白の輪ギクを日本で葬式に使うようになったのはいつ頃からなのでしょうか。
明治、大正、はたまた昭和初期のころの葬儀に関する資料映像を見ても、それほど生花は使われていません。たまに見かける花も決してキクではなく、造花のハスなどが目に付きます。
詳しい方に伺ってみると、キクを葬儀の花祭壇で習慣的に使うようになったのは、昭和40年代後半から50年代にかけて。それまではカゴ花を使っていたようです。花祭壇形式普及の黎明期には、葬儀で花を担当する花屋さんは、一年中どのような季節においても祭壇用に多くの輪ギクを集めるに苦心されたことと想像できます。
それでも、やはり輪ギクが圧倒的な物量と生産量の安定性から、花祭壇用のエースとして白羽の矢が立ったのでしょう。
ちなみに、福岡県の八女地方で施設電照ギクの共選共販が始まったのは1964年、愛知県の渥美地方では1967年(鶴島久男氏著『花き園芸ハンドブック』より)。このころから、キクの周年栽培が劇的に向上したものと思われます。
歴史を紐解けば、キクは後鳥羽上皇にこよなく愛され、家紋にまで登用されたことによって現在も皇室の紋章としてデザインされています。
実は万葉集には一度も登場せず、キクが古典で最初に謳われたのは、797年桓武天皇によってでした。
「この頃の 時雨の雨に菊の花散りぞ しぬべくあたらその香を」
キクの初歌でありながら菊の芳香を謳った珍しい歌です。
重陽の節句が日本に定着したと言われる814年からは、キクは数多く詠まれるようになりました。年の最後に咲くキクは哀惜を表現する際にも謳われました。
「菊の花 手折りては見じ初霜の 置きながらこそ 色まさりけれ」 (『古今和歌集』)
キクを手で折って見ることはするまい。初霜がのったままの方が色が美しい。ですから、お侍様も老いたからと言って宮中を去ろうとしないでくださいと懇願する歌です。自然のままの一輪のキクを愛おしく思う気持ちとともに、別れの哀惜の念が伝わってくる歌です。
松尾芭蕉は1694年の重陽の節句に
「菊の香や奈良には古き仏たち」
と詠み、同年10月に帰らぬ人となりました。
日々市場で大量に取引されるキクに慣れてしまうと、キク一輪を見つめる趣を忘れてしまいがちです。重陽の節句を機に、これから旬を迎えるキクを見つめ直してみたいと思います。