OPERATIONAL PERFORMANCE花研コーヒーブレイク

環境意識の相違について

2012.02.08

 2月6日の小欄にて、同じ「炭づつみ」をプロモーションしていても、EUと日本国内とにおいてお客様が反応するポイントが異なることを書きました。そしてその大きな違いのひとつは「環境に対する意識」であると。

 

自然のことのようにも思いますが、そもそもどうしてそのような違いが生まれたのか、自分の頭を整理しがてらまとめてみたいと思います。

 

古代人々は森を切り崩して文明を作りました。古代メソポタミアやインダス文明、どの文明においてもそうです。そしてれらの文明の繁栄の裏には必ず森林の破壊がありました。

時代を下って 18世紀。この時代においても文明の発展の裏に森林破壊があったのは同様でした。英国をはじめとした産業革命の渦の中、近代文明が著しく発展しましたが、目覚ましい技術革新の一方で多くの森林が伐採され、自然環境の悪化を引き起こすことになります。

 

第2次世界大戦後、化石燃料の燃焼や工場から排出された硫黄酸化物や窒素酸化物により引き起こされた酸性雨。これにより枯死したドイツのシュバルツバルトの森は、深刻な森林被害に遭った例として世界的に問題視されています。この森は酸性雨被害に遭ってからというもの別名「黒い森」とも呼ばれていますが、本来はドイツ人が誇りに思うほどの豊かな森だったので、これを枯らせてしまったことはドイツの人々にも大きなショックであったと想像します。

 

このように自らの発展を優先するあまり、繰り返し森を破壊してしまうことになります。

ここで忘れてはならないのは、ヨーロッパ、特に中欧以北が日本や東南アジアとは異なる点は、その気候風土から、一度破壊してしまった森林を再生するにはアジア以上に時間がかかるということです。ジャガイモが主食であることからも分かる通り「肥沃な大地」などという表現からは程遠いヨーロッパの北部では、自分たちが壊してしまった環境の重大さに気付き、“環境を守る”ことの重要さを強く認識したのではないでしょうか。同じヨーロッパでも地中海沿岸と比べ寒気の厳しい内地では、1年を通してあの大きな身体が必要とするエネルギー分の食料を確保するのは苛酷なほどの環境だったと想像します。寒くても土地が痩せていても収穫できるジャガイモなしでは難しかったかもしれません。そのくらい植物の生育には向いていない土地であったということです。

  このような痛い経験を経て、自然を“守る”ことの重要さを強く認識するようになります。

 

次に自然と神様をどう見ているかの違いについてですが、「一神教」が生まれるのも、西欧文化では神様が自然を超越した存在であると認識しているからこそだと思います。神様は人が作り出したものですから、つまり人が自然を超越し得るという概念を持っていたことが伺えます。ヨーロッパ大陸の地盤は世界でも最も古く、日本とはケタ違いに固く安定しているといいます。だからこそ災害も日本に比べると極めて少ない。そのような中にあって“人が自然をコントロールできる”という思いが発生するのは自然のことのように思います。

 

 ところが、太古より災害とともに生きることを宿命としてきた日本人にとっては、自然は畏怖の対象であり、コントロールなどできるはずもなかった。むしろ自然こそが全てをコントロールする神であり、その自然(神の手)によって私たちの生活がコントロールされてきたのです。この日本で自然を超越した神様がいるという発想など生まれるわけもありません。自然によって痛い目に遭っているので、その“自然を守る”などという発想が生まれるはずもないのです。

自然をコントロールするはずの神様を信じてまじめに生活してきたのに、自然災害によって一瞬にして人生や生活を破壊されてはたまったものではありませんから。神様など信じなくなります。

だから“自然が神様”なのです。自然に神様が宿るのです。日本人の信仰は自然が全てを超越しているということなのです。

おまけに西欧の“森=自然”という概念も私たち日本人とは違うところです。汎神論者の日本人にとっては、花も草木も海も空も、周囲の全てが自然という概念を持っています。

 

養老猛さんの言葉を借りれば、(要約)「本当の自然に身を置いて暮らすのは危険なこと。自己責任の世界。銀座の四丁目の交差点で石ころにつまづいて転んだら“行政が悪い”ということになりかねませんが、森の中で転んでも誰のせいにもしないでしょう。自己責任です。ではなぜ都市を作ったのかというと、自然から自分たちを守るため。そもそも自然は怖いもの。そこで生活するには覚悟が必要なのです」

 

 “銀座の四丁目で転んだら誰のせい?”というのは面白い視点です。“自然と都市生活”までに論点が展開するのですから。

 

ここでまとめますと、西洋では自然は人がコントロールできる対象であり、“守る”べきものであった。

一方、日本人にとっては自然は“守る”対象ではなく、私たちの生活がむしろ“穏やかな自然によって守られている”。だから近年になって“自然を守ろう”と言われても、日本人にはその意識がなかなか根付かない。環境意識が薄いということになるのでしょう。

 

自然をコントロールする西洋人と自然によってコントロールされる東洋人との意識の差が環境意識の差ということですね。一説として・・・ですが、 どうでしょう。

 

(ドイツ デュッセルドルフ近辺の上空から↓)

  

 

(ヨーロッパの森)

 

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