花研コーヒーブレイク
★花市場開設100周年★
2023.12.18
こんにちは。みんなの花研ひろばです。
あいやー!気づけば2023年もあと2週間ではありませぬか!
あと2週間でやることリストを慌てて作って、なんとか31日までやり切ろうと夏休みの宿題的に慌て始める泥油です。どーせできないけど。
さて、2023年12月20日(つまり明後日)で花市場開設100周年を迎えます。
それに気づかせてくださったのは、兵庫県の宇田先生。こちらのコラムでした。
コラムは「関東大震災で東京が焼け野原になった1923(大正12)年12月20日、わが国最初の花市場が有楽町に誕生しました。」
というイントロで始まります。花市場ができた経緯やそれまでの取引との違い、なぜ花全般を扱う花市場ではなく温室で栽培された花を扱う「高級園芸市場」だったのかなど、この上なくわかりやすく説明してくださっています。ぜひご覧になってくださいませ。
さて、関東大震災直後いかに悲惨な状況だったか、画像や映像、書籍など見てはいても、花市場がどれほど混沌とした状況から生まれたのか、9月1日の震災で早くも12月に花の市場が誕生した背景など、少しでも自分の理解を促したいと思い、震災直後の惨状の写真集「関東大震災100年」という本を開いてみました。
銀座の焼け野原、横浜駅のがけ崩れや脱線した列車の様子、焼け落ちた上野駅、上野駅前広場に家財道具一式とともに避難する被災者の様子など、各地における悲惨な状況が白黒写真で掲載されています。日常生活の突然の喪失、都市機能停止の状況で、誰にとっても何からすればいい変わらないでしょうに、よく復興したものだと驚かされるほどの状況です。
当時の陸軍や海軍が人力でがれきを撤去する様子なども紹介されていて、復興への第一歩も写真から伝わってきます。第一歩はそれだけではありません。日比谷公園の臨時公設市場(「下関から鮮魚が届いた!」と店頭貼り紙)や神田にできた仮設の青物市場に大根が積み上げられているシーンもあります。この仮設市場がのちに秋葉原西北へ、平成元年に大田区へ移転したとの解説がありますので、現在の大田市場(青果部)の元になったことが分かります。
魚は日本橋から移転した芝浦の仮設魚市場が大きく紹介されています。樺太からサケが荷揚げされたようですが、交通の便が悪いなどの理由で12月には築地の海軍省用地に移転したとの説明があります。銀座の焼け野原の古着屋や、芝増上寺門前の物売り、台風で水浸しになった場所で水に浸かって物売りをしたり配給の行列を作る生活者、このような混沌とした状況の中でも日常生活を取り戻そうと動き出し、その中で花市場も生まれたのだと、これらのモノクロ写真を見ていると想像ができます。
犠牲者に供える花を売るシーンも収められています。リヤカーに花を積み、着物か浴衣姿の女性が頭に手ぬぐいを巻いて花を売っている姿があります。花は特定できませんが、野菊のようにも見えます。震災の年の陸軍被服廠(軍服を創る工場)跡地(墨田区)で撮影したものだそうで、花販売の向こう側にはまた処理しきれていない遺骨と遺灰がうず高く積み上げられた山が見えます。
詳細は本をご覧いただければと思います。関東大震災の死者・行方不明者は記録が残っているだけで約10.5万人。宇田先生のコラムの副読本としてご参照いただければ、花市場誕生の経緯に対する理解を助けるものと思います。
それではみなさま、ごきげんよう。